こうさんぜんこう

所在/千葉県四街道市鹿渡334番地

当寺はでら(奈良県桜井市)を総本山とする真言宗豊山派の寺院です。寺伝による創建はしょうとく4年(1714年)とされ、佐倉市井野のせんじゅいんを本寺としています。
当寺は、鹿島川の支流川の左岸台地が小名木川に向かい浸食された、小こくとう部に位置します。すぐ背後の台地上は、遠く東総方面と、佐倉市わたしを経て船橋方面を結ぶ古道が通っています。また当寺の南東150mほどの位置にある南方向に伸びる舌状台地上に、小規模な中世城郭のひがしさく城跡が存在しています。

こうした地理的環境から、当寺の歴史を考えると、江戸時代とされる開基はさらに遡ると思われます。その理由の一つとして、山門付近からげん4年(1306年)銘の入ったさしいたが出土していることがあげられます。また、二つ目として、30×30mほどの単郭の小城郭東作城跡の存在があげられます。これは堀と土塁が周囲を巻いていますが、堀・土塁、さらにくるわ自体が小規模で、戦国時代後期までは下らないと想定されます。実際、北北東800mほどの所には、戦国時代末期に使用されていたと想定できる鹿渡城跡があります。

当寺の開基に関わるのは、平安時代後期の千葉氏の一族臼井氏と考えられます。臼井氏は、千葉常胤の父常重の弟常康が、臼井を名のることで始まります。臼井(佐倉市臼井)を名字の地として、常康の子孫は現在の八千代市・佐倉市西域・四街道市一帯に領地を得て、それぞれの地名を名字に名のり発展していきました。
ここ鹿渡(古くは「ししわたし」と読まれていました)の地は、常康の孫にあたる臼井六郎有常の子知常が、初めて鹿渡氏を名のります。知常弟の清胤はたけ氏(佐倉市小竹)を、知常の子からは志津(佐倉市)・栗田(四街道市栗山ヵ)・小名(同小名木ヵ)を名のる一族が派出します。

鹿渡の地を分割相続された知常は、千葉氏でいえば常胤の孫にあたる世代です。鎌倉時代初期に生きた人物と思われますが、この善光寺のある谷に屋敷を構えていたのではないかと考えられます。

近年の研究によれば、武士の屋敷は交通の便のよい場所に構えられていた、と考えられています。そして、武士の屋敷には持仏堂があって、守り本尊を祀ることがよく行われていました。当寺も、中世前期に起源をもつ鹿渡氏の持仏堂が発展していったものではないでしょうか。鹿渡氏は、戦国後期には臼井の一門として、本佐倉城の千葉氏の配下となり、天正18年(1590)の羽柴秀吉の小田原攻めによって、千葉氏とともに滅びます。これにより、善光寺の前身にあたる寺院も、大檀那を失い廃絶したものと思われます。

こうしていったんは廃絶した模様ですが、正徳4年(1714年)千手院を本寺に仰いで再興されたと考えられます。このことをもって、寺伝では正徳4年の創建としているのでしょう。千手院は、元は蓮華王院と称していました。同院は明徳年間(14世紀末)に大檀那であった小竹氏に願い、戦乱を避けて小竹の地から井野へ移ったと伝承されています。江戸時代に千手院を本寺としたのも、鹿渡氏と小竹氏の始祖は兄弟の間柄であったことが影響していると思われます。

鎌倉時代末から南北朝・室町時代にかけて、全国各地を六十六部かいこくひじりが歩き善光寺信仰を伝えていきました。彼らは携帯できる小さな阿弥陀三尊像を持ち歩き、火災で焼けた善光寺の復興資金をかんじんして歩きました。善光寺聖と呼ばれています。こうした影響で各地に善光寺の名を戴く寺院や、善光寺式阿弥陀三尊像が作られています。
県内には30数体の善光寺式三尊像が確認されますが、当寺本尊(秘仏)は中尊像高16cmと県内ではもっとも小さいもので、14世紀後半から15世紀にかけての制作と考えられています。この像高から、持ち運びしたものか、武士などの念持仏と想定されています。

ところで当寺の本尊は善光寺式阿弥陀三尊像です。秘仏とされ、33年に一度開帳が江戸時代末まで行われてきた記録があります。嘉永5年(1852年)3月12日から17日までの5日間、開帳がなされ、近隣の村々や遠隔地からも多くの人々が集まり、賑わいをみせたと記録されています。

佐倉市文化財審議会委員長 遠山 成一